インタビュー

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東京都議会議員としてスタートした日本共産党の原のり子さん(51歳)。やさしい人柄が人気です。東久留米市議5期目の現職で、党市議団の団長、市議会副議長を務めています。まずは、生い立ちを中心にお話をうかがったところ、たくさんの「たからもの」を掘り出しました。インタビュアーは、2人の保育園児を育てるママです。

 

自信満々の子だったけど、実力は…

―子どもの時代の話を聞かせてください。どんなお子さんだったのですか?

生まれは東京都世田谷区です。育ったのは川崎市で、多摩川のすぐそば、まだ畑がある地域で東久留米に雰囲気の似ている地域でした。畑があり、川があり… 川のそばに縁がありますね。

子ども時代は、前に出るのも嫌がらない、学級委員もやるなど、けっこう自信満々の子どもでしたね。自信満々だったけど、実力はそうでもないとだんだん気付いてきたんですね。(笑)

 

ゴムとび、缶蹴り 楽しかったなあ

―へぇ~、今のイメージからいうと何となくおとなしいお子さんだったのではと思っていました。

暗くなるまで外で遊んでいるタイプで、近所の「入ってはいけない」という丘のような場所に忍び込んで、怒られたりしてました。外遊び、ゴムとび、リレー、缶蹴り…楽しかったなぁ。当時「ホール」と呼んでいた学童保育に通っていました。学校の敷地内にプレハブの学童がありました。

 

「結婚したら共働きがいい!」と心に決めて

―共働きご家庭だったのですね? どんなご両親でしたか?

父は高校の体育教師、母は幼稚園の先生、と2人とも体育大学の出身でした。子どものころの活発さは、両親の影響でしょうね。

親からは、頭ごなしで怒られたことや、たたかれた記憶は一切ありません。いつも自分の頭で考えることを応援してくれた両親です。両親共働きの家庭で育ったので「自分も結婚したら共働きがいい!」と早くから心に決めていました。

―ごきょうだいは?

5歳離れた弟がいます。弟だったこともあり、お互い一人っ子のような感じだったかもしれませんね。

 

合唱団が私を支えてくれました

―特技はピアノとのことですが…。

子どものころは両親の影響もあり、学校の先生になりたいと思っていた時期がありました。ピアノは、小学3年生から習い始めたのですが、4年生の時に、当時川崎を本拠地に活動していた少年少女合唱団に出会ったことが大きいのです。

この合唱団は、とても面白いところで、クラッシックからロック、ジャズまで演奏する「歌って踊る合唱団」でした。毎週日曜日は一日中、合唱団で過ごしました。私の居場所でした。いじめを体験したこともあるのですが、その時にも合唱団は心の支えでした。本当に救われました。合唱団での生活があったから今の私があるんだなあ、と思います。宝物ですね。

 

「プロのキーボード奏者になる!」

―音楽の道を決意されるんですか?

そうなんです。合唱団に、素晴らしい女性の先生がいました。その先生の影響で、「プロのキーボード奏者になる!」と将来の夢を決めました。合唱団は中学3年生まででしたが、ピアノ伴奏者として高校3年生まで参加していました。

自己肯定観の強い子どもでした(笑)から、先生に褒められて、「プロにいけるかも!」と思っていました。好きなジャンルはフュージョンでした。

高校卒業と同時に、オーディションで、プロ養成コースのある音楽院に合格しました。ここで、さらに「キーボード奏者になれるかも!」と思ったんですね。

同時に、法政女子高から法政大学に合格していました。父は、音楽院だけでもいいんじゃないか、と思っていたようですが、母からは「大学で学ぶせっかくのチャンスなんだから」と進学を勧められ、両方の道に同時に進みました。

 

共産党に出会って

―音楽に生きたいと思っていた人が政治家になりましたね。

はい。音楽院では、曲をアレンジして、先生に褒められ…順調だったのですが、だんだんつまらなくなってきたんです。大学で、日本民主青年同盟(民青)や日本共産党の活動に参加するようになり、ぐっと視野が広がりました。共産党に出会い、ものの見方、社会の仕組みを学んだ、これが非常に大きかったと思います。

それまでは、音楽のプロになるため、どう競争を勝ち抜くか、音楽で食べていくためにはどうすればいいか、と考えをめぐらせていました。でも、それがつまらなくなってきたのです。音楽で食べていくことがすべてではない…とプロへの気持ちが薄れていきました。

まぁ、才能がなかったということですね(苦笑)。音楽院は結局、1年間通ってやめてしまいました。でも、アルバイトではライブハウスで伴奏をしたり、合唱団にお手伝いに行ったり、音楽は続けていました。

 

共産党に入るとき、ちょっとは悩んだ

―共産党と出会ったのは大学生なのですね。どうして共産党を選んだのですか?

私の両親は、ともに共産党員でした。「しんぶん赤旗」の早朝配達などコツコツと活動し、世の中をよくしようと頑張る姿を見て育ちました。両親と一緒にいる仲間も素晴らしい人たちでしたから、親たち大人の姿を通して、真面目に正しいことをしていると自然に理解して育ちました。

両親から考え方を押し付けられたことはなかったので共産党への反発はありませんでした。大学生になり入党をすすめられたときは、「親の影響で共産党がいいと思っているだけではないのか?」「本当に自分の考えだろうか?」と一瞬ですが、悩んだことを思い出します。入党を勧めてくれたのは大学の先輩でした。「自分の考えか自信がない」と話すと、「今、自分の頭で考えているよね」といわれました。「そうやって一つ一つ自分で判断していけばいいんじゃない?」とアドバイスされ、それもそうだな、と迷いがなくなりました。

 

共産党のここが好き

―共産党のどこがお好きなんですか

日本共産党は、自分たちだけで政権を取るものだと考えていない、というところです。共産党の綱領には、めざす社会の変革は「独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人々を結集した統一戦線によって、実現される」と書いているんですね。共産党に入るときに、とても印象深かったところです。立場の違う人とも、一致点を大切に社会をよりよい方向に変えていく…。まさに今、各地で市民の皆さんと野党の共同が広がっていますよね。自分もその一人として参加していることに喜びと誇りを感じます。

 

卒論は、ロバート・オーエンの保育について

―保育士を目指していた、というお話ですが…。

そうなんです。法政大学では労働運動や原水爆禁止運動など社会的な運動に深く関りをもっておられた田沼肇先生のゼミに入りました。最初のテーマが長時間労働問題でした。

共働き家庭で育った私ですが、もっと大変な家庭環境の子どもはどうしているのかな、と考えたことが保育に気持ちが向くきっかけとなったと思います。

ゼミで勉強するなかで、イギリスの空想的社会主義者で、世界で初めて保育園をつくったロバート・オーエン(1771年-1858年)のことを知りました。卒論は、ロバート・オーエンの保育について書きました。

産業革命当時のイギリスでは、工場で働く親が子どもを工場に連れてきます。紡績工場に子どもが来ると危ない場所もある。そこでオーエンは、別室で子どもたちを過ごさせることにした。子どもたちの発達の保障もしなければならない、となり、遊びと学びの教室を開く。そうすると働く親の効率も上がっていくのですね。

社会を変えていく方向につながり、子どもたちもいい子に育った。子どもを育てること、社会を変革することを一生懸命考え実践したオーエンは素晴らしい。私はロバート・オーエンが大好きです。

彼の実践には、資本家からお金を出してもらい、よいものをつくろうとする…空想的社会主義という点で限界もあったのですが、そういう実践家がいたからこそ、科学的社会主義が導きだされた。この空想的社会主義の実践を大事なことだと位置づけている共産党に、強く共感しました。社会には発展があり、共産党も常に努力の途上だ、ということが分かったことも大きな収穫でした。

 

社会を変える。それを仕事にしたい

―共産党の職員(専従)の道を選んだのはどうしてですか?

大学卒業後に、「保育のことをもっと知りたい、勉強したい」と夜間部の保育専門学校に通いました。自分より若い子たちと「ひよこぐみ」というサークルをつくって赤旗まつりに出たこともあります。とても楽しくやっていました。

昼間は、アルバイトでピアノ、水泳を教え、また、共産党の千代田地区委員会でもアルバイトをしました。企業のなかなどで働く共産党員の姿を目の当たりにするなかで、地道に社会をよりよくすることに取り組む共産党員のことを知ったのが大きかった。

共産党の事務所でお手伝い的な仕事ではあったのですが、地区委員会のみなさんと学習をしたりするなかで、社会のこと、共産党のことをさらに学び、地道に活動を続ける党員の方たちを支える仕事はとても大事なことだと考えるようになりました。

裏方として直接、社会を変えていくことを仕事としていきたい。直接子どもを育てる保育士とは別の道だけれど、子どもたちが幸せに生きられる社会をつくっていくという生き方もあるかな、と思うようになっていました。素直にそう考えられました。

 

両親は、初めて私の決意に反対

―ご両親にその話をされたんですか?

もちろん、話しました。両親は、初めて私の決意に反対したんです。党の職員は大変だ、娘がかわいそうすぎる、と(笑)。反対されたので理解してもらおうと、親に手紙をしたためていました。地区委員長が「必ず理解してくれる、この道を進んだあなたの姿を見て理解するよ」といってくれました。

 

「一人ひとりを大切にしなさい」

―共産党の職員の仕事に苦労はなかったのですか?

常に地道に社会を変えていくための働きをするのが共産党だと思っているので、ソ連の崩壊などありましたが、政治情勢で落ち込んだりしたことはありませんでした。

職員となり、学生担当(学生の党員を支援する仕事)になったとき、どうしたらいいのか、と戸惑う私に地区委員長が「一人ひとりを大切にしなさい」とアドバイスしてくれました。「そうか、それなら私にもできる!」と気持ちが楽になりました。学生の皆さんと一緒に学習したり、仲間を増やしたり。とても楽しかったです。

 

彼が東京に戻ってきてくれました

―原さんは、3人の娘さんのお母さんですが、お連れ合いとのなれそめは?

大学時代に出会い、一緒に民青(日本民主青年同盟)の活動などをしてきました。保育専門学校を卒業したら結婚しよう、と決めていました。彼は、大学卒業後に出身地の近くの愛知県に就職していて、私もいずれは彼のところに行って結婚するつもりだったのですが、私は共産党の職員になる道を選びました。地区委員長が、彼に手紙を書いてくれたのです。どこで生きるかではなく、どう生きるかだ、と。いろいろ話し合い、言葉には言い尽くせませんが…彼が東京に戻ってきてくれました。

夫は、どうせ東京に来るなら、改めて勉強して社会福祉士の資格をとろうと、日本社会事業学校研究科(清瀬市)に行くことにしたので、住まいを探したのが学校の近くの地域でした。清瀬でも探していたのですが、農家の敷地内に適当なところが見つかったのが東久留米だったのです。

 

産休中に市議候補の話が

―その東久留米で市議に当選したんですね。

3人目の娘が生まれて産休中に、東久留米の市議会議員に、という話が来ました。共産党の職員をしていたので、できることはやっていきたい。でも、自分はタイプではない、と半年ほど悩みに悩んだ結果、挑戦することにしました。1999年、東久留米市議会議員に初当選しました。

 

走りながら考える

―子育てしながらの議員活動、大変だったのではないでしょうか。

議員活動ですが、子育てしながら、走りながらの方が考え方もまとまると思ってやってきました。「等身大で」と思ってやってきました。これが「至らなくて、これじゃダメだ」と思ってしまう性格だったらやってこられなかったかな。〝ほどほどの人〟なんです。(苦笑)

東京新聞が、女性議員のシリーズ企画のなかで私を取材してくれました。実は、いろいろお話したのですが、記事となった部分は、子育て中の困難さのところでした。

「ここを取り上げるか~」と思ったのですが、やはり今の子育て世代の仕事と家庭の両立の大変さがあるのだと改めて考えさせられました。逆に、私は、周りに恵まれてやってこられたのだな、と思っています。「保活」ということばもありませんでした。今の若いお母さんたちの大変さに寄り添い、一緒に考えたい。大変な渦中にある今のお母さんたちには、「何とかなるよ」と共有できるようにしたい、という思いは強いです。

 

おかあちゃんみたいな人でも議員やれるんだね

―そうはおっしゃいますが、議員さんの仕事は大変だと思います。

共産党の議員だったから続けてこられたと思います。地域の党員、後援会員の方々に支えられ、手を伸ばしてくれる人が周りにたくさんいました。議員になったばかりのころは、夫と私それぞれの母親の協力も得ました。夫婦で力を合わせればやってこられました。なるべく、夕飯はみんなでそろって食べられるようにと心がけました。思春期も、子どもだけでごはんを食べることのないように、夫もなるべく残業をしないようにしてくれました。

保育園が安心して預けられたことも本当に大きな支えでしたし、保育園でパートで働いていた地域の方に見てもらえるようお願いしたり、お友達のお宅にお世話になったりしたこともよくありました。

娘が、「おかあちゃんみたいな人でも議員やれるんだね」と言ってくれたことがあります。私は「そうだよ、普通の人がやれないとダメだと思っているよ」と話しました。実際、そういう思いでやってきました。子どもたちにとっては、物心ついたときから母親が議員でしたけど、他の働くお母さんと一緒だと受け止めてくれたかな。

 

市民のみなさんから学ぶことばかり

―原さんはいつも、「市民のみなさんから学ぶ」とおっしゃいますね。

私の議員活動は、市民のみなさんから学ぶことばかりだったからです。都市農業、障害者福祉などの運動の方々とは、議員にならなければ出会えなかったかもしれません。みなさんから学ばせてもらったこと、それも私の宝物です。

障害者自立支援法が成立し、障害を持つ人が行動するために必要な移動支援に上限が持ち込まれ、自由に外出ができない事態が生まれました。障害を持つ人の余暇をどう考えるか、が問われるなか、保護者の方々は、障害者が余暇を持つことは贅沢なことではなく当然のこと、人間にだれにとっても必要だ、それなのに制限するのはやはりおかしい、必要な人に必要な支援が行われるべきだ、とまっすぐに訴えかけてくれました。その姿勢に本当に学ばされました。

政治を動かしているのは市民

―原さんの政治信条は、「政治を動かしているのは市民」ですね。これはどういう意味なんですか?

障害児教育では、特別支援学級が増設されました。これは、保護者の方々が何年も取り組みを続けた結果です。共産党市議団も視察や質問を重ねました。議会のどの会派も見過ごせない、となりました。

障害を持つ就学前の子どもたちが通う、わかくさ学園を東久留米市立のまま守っていくことも議会全体の合意がつくられていきました。

活動センター「かなえ」の新設も、家族会が丁寧に各会派との話し合いを重ね、まさに超党派の取り組みになって新しく建て替える運びとなりました。振り返ると、どれも大きな運動のなかで実現していったものです。

障害を持つ人の生活寮をつくる取り組みでは、ある保護者の方は、子どもを生活寮に入れることに罪悪感があると葛藤されていました。でも、大人になった子どもには自立が必要なのだと話し合いを重ねるなかで、グループホームを求める声があがりました。市の障害福祉計画をつくるためのアンケートでは、今後も家族と暮らしたいと答える方が圧倒的に多く、生活寮に入りたいという人は少数という結果でした。でも、議会の質問では、だからニーズがないということではなく、直接数字には表れないその背景を十分に踏まえることが必要だ、と強く訴えました。部長からは、「生活寮は必要だと思っている」という答弁があったことは本当にうれしかったです。お母さんたちの思いが伝わった、と思いました。

議員として運動から学び、議会で議論を行い、そこから行政側にも学びとってもらい、事態を改善していく、そういう議員活動を経験できたことが大きな財産です。

「いつも一緒に考えてくれる」と言ってもらえて

―忘れられない言葉がある、と聞きました。

保育園民営化反対の取り組みのなかで、若いお母さんが「原さんはいつも一緒に考えてくれる」と言ってくれたことがありました。「教えてくれる」とか、「代わりにやってくれる」とかではなく、一緒に考え取り組む存在と認めてくれたことが本当にうれしかったです。

口先でうまい質問ができても行政当局の姿勢はほとんど変わりません。市民の粘り強い運動、市民の声があったからこそ制度や施策が改善するのだ、と実感します。

保育園民営化から子どもたちを守ろうと頑張る保護者たちの運動もそうです。へこたれずに取り組んできたからこそ改善させたことが山ほどあるのです。民営化反対の取り組みでは、民営化が進められる結果もありますが、子どもたちのために取り組んだことは何一つ無駄だったことはありません。

取り組みのなかで、同じ地域で子育てするつながりが深まったことも大きいと保護者の方が口々に語っていました。本当にそうだと思います。地域のこれからの子どもたちのために運動に取り組み、子どもを守り続け、改善させてきた、つながりを深めてきた、そういう市民としての取り組みが本当にすごい。

 

公立保育園全廃計画に立ち向かう

―東久留米では、すべての公立保育園を全廃するという計画が出てきました。

ひどい計画で、許せません。最初に名前のあがった、しんかわ保育園の保護者の方がさっそく取り組みを始めています。子どもたちの最善の利益のためにも全廃計画はおかしい、と声をあげています。これまでの父母の方々が続けてきた「民営化反対」の取り組みが脈々と引き継がれていると思います。

 

公立保育園を応援する都政が必要です

市は「財政が厳しいから」といいます。市はずっと黒字決算ですけれど、「財政が厳しい」と。なぜそんなことになるのでしょうか。要因の一つには、東京都の問題もあります。

以前は、保育園の運営費として使ってくださいと決められていた国の補助金が、なんにでも使える「一般財源」にされてしまったため、自治体の姿勢によって保育予算が削られる事態になりました。東京都は、一般財源化に合わせて、都独自におこなっていた運営費の補助をゼロにしてしまったんです。

問題は、国や都にもあるわけです。待機児童解消が叫ばれますが、東京都には、自治体の認可保育所整備を応援する立場に立ってほしい。これ以上の規制緩和路線は、子どもの命を脅かすことになりかねません。待機児童解消のためにも、公立保育園が役割を果たすことが必要です。公立保育園を応援する都政が必要です。都の補助金が復活すれば、公立保育園全廃計画にストップをかける大きな力になります。都の壁を突破したい、と都政にチャレンジする決意をしました。